予備校講師という職業

ここ7年以上, バイトとして予備校講師という職業に就いている. これまでに 教える側としての立場を経験して思ったことを徒然なるままに書いてみようと 思う.1

教壇の上からの風景

よく言われることではあるけれど, 教壇の上からは生徒がよく見える. そりゃ, 一段上から見下している2わけだから当然ではあります. ただ, 教師が生徒 を見なくなることってのもよくあるわけで.

いずれにせよ, 一番の問題は「自分の授業に対する客観性が失われる」という 点にありそう. 翻って自分の授業を考えるに, 最初の頃に比べて最近はあまり 生徒を見なくなった気がする. この場合は上記の区分ではなく

ということではないかと自己分析. そりゃ, 内容が変わるわけでもなし, 既に 実績のあるカリキュラムであれば, 時間配分なんかはできるわけだし. 生徒の 反応をよく見て調整したり板書を変えたりする必要が初回に比べるとなくなる のは, ある意味必然ではあります. ただ, それもよく考えると生徒にとっては 迷惑な話であって... 反省.

で. きれいな板書をする先生であれば, 先生の書いた黒板をそのまま写せば綺 麗なノートのできあがりなわけだけど, 私のように, 良く言えば臨機応変, 悪 く言えば行きあたりばったりな授業の場合, 思いつくままに板書しているので [3], 場合によっては, 黒板に書いてあること+口で言ったことで"閉じる"内容 になることもあるのでした. ということで, 「板書が遅いなぁ」と思った場合 には, 「もしかして黒板に書いてある内容だけじゃなくて, 口で言った内容も メモしておかないとまずいんじゃないだろうか」と思うべきですね4.

授業と実験

教師ってのは生産性に乏しいと感じざるを得ない状況が多い. ただ, 人的な生 産性は決して低くはないと思うけれど. でも, 授業内容は変化がほとんどない. これじゃ自分が何かをプロデュースしているという実感が得難いのはある意味 当然ではあるかと. ただし, 内容が変わらないとしても, その提示方法につい ては工夫の余地がある. 特に, 実験なんかをやるのであれば, そりゃいくらで も工夫の余地があるでしょうな. ただ, 近年の傾向としては, 「目をひく実験 で生徒の歓心をひく」というのがあるので, 実験ばかりするのはどうかと [5].

あと私立の中高には多いようですが, 理科実験をやたら熱心に取り組ませると いうのもどうかと. やはり理論と検証というスタンスを外してしまうと, 科学 ではなくなるように思います. 実験にする場合, 本来は「現象の中からその本 質を抽出できるように装置を工夫する」という部分が最も大切だったはずなの ですが, その部分はすでに教師(というか教則本)がやってしまっているので, 生徒がやるのは「現象の再現性を確認しましょう」という部分. これじゃ機械 とおんなじ.

で, その部分までを生徒にやらせようというのは, 「ゆとり教育批判」と同じ ロジックで, 「自分で考えられるようになるためには, 自分の思考の核となる 知識がないと駄目」という堂々めぐりが該当することになると思いますです. ごく限られた人間以外は, 科学的思考法というのは既得のものではなく, 教育 により身につけるものなのですから, 科学的に思考できることを前提とする課 題は, 授業を崩壊させる(少なくとも教師の目論みとは違う方向に進む)要素に しかなりえないのではないかと.

ということで, 実験主体の授業ってのは, やはり高校までは控えるべきじゃな いかと思うんですがねぇ. でも, 私が受けてきたような, 実験がほとんどない 授業ってのも, 科学がガラスの向こうのもののように感じられて, これまた面 白くないので, そこらへんはバランスかと. やはり平凡な結論に落ちつくわけ ですが, そういう意味では「平凡こそが最も難しい」ということなのかもしれ ませんな.


[1] わざわざ断る必要があるとも思えないけれど, この文章は完全に私見であ ることをお忘れなきよう.

[2] 「みおろしている」であって, 「みくだしている」ではない.

[3] こう書くと完全に誤解されそうなので弁解しておくと, いくら何でも下 準備も手稿もなく授業をしてるわけじゃないのです. 手稿には板書内容のダイ ジェストを書いてあって(大くは数式とその変形), そのままじゃ日本語になっ てないので, 黒板の前で日本語をひねり出す作業が必要, というわけです. も ちろんきちんと論証しなくちゃならない部分であれば手稿のほうにあるわけで すが.

[4] って, 本当はよくない授業なわけで, これも大いに反省しなくちゃなら ないのですが.

[5] あくまで私見です.