ibukiの歴史

ものはNEC PC-9821Xa/C10W。このあとXaシリーズはいくつか出ていたから、 「Xa無印」なんていう呼ばれ方をすることもあった。その昔、PC-9801XAとい うハイレゾマシンがあった。ゲームの適用機種欄には「XAは除く」としばしば 書かれていたが、当然、これには該当しない。

今でこそ「けっ」とか言われそうなマシンだが、MS-Windows3.1で使うのであ ればおそらく最強と言えたマシン。カタログスペックは、Pentium90MHz、メモ リ7.6MB、HDD1GB。PC9821として初めてPCIバスを採用したマシンでもある。 CD-ROMドライブは当時最速の4倍速で、IDEでは2倍速までしか製品化されてな かったものだから、SCSIのCD-ROMドライブが内蔵されていた。買ったのは1995 年の初め。おりしもPentiumのfdivバグ騒ぎで品 薄になってたんだよな。本当にIntelのPentium生産ラインが一時停止して、対 策済CPUがまだ市場に行き渡ってないという状況だったから。お値段もけっこ う結構だったし。

購入当初は、このマシンにメモリを16MB追加して、5"FDDをつないで当時とし ては超ぜいたくな環境で動かしていた。

このぜいたくな環境でなにをしていたかと思い出すと、もっぱら98用のゲーム をしていただけだったような気が。Windows3.1の環境でよく使っていたのは 「ライト」くらいかな。Windows95が出て、Wordpadというソフトに変わったけ ど、「ライト」に比べてだいぶ機能が減って使い勝手が悪くなった。売り物の 方のWordを使えということなんだろう。構わないけど。

Windows3.1といえば、言わずと知れたマインスィーパーも結構やった。あんま し速くできなかったんで、旗マークをつけないで開けるところを全部開くとい うようなことをもっぱら。うまくいったとき、それまでついていなかった旗が 一斉につくのが結構壮観。

購入後半年たった1995年の夏には86音源ボードを追加した。FM音源をつけると それまでのビープ音の世界があまりにチープに感じる。そして98用ゲームにさ らにはまっていくのだった。

でも、これだけの用途に使うのであれば、当時であればこんなに大きなHDDと か速いCPUとか潤沢なメモリとかは必要ない。一部の古めのゲームではCPUが速すぎてちゃんと動かなかっ たくらい。

これだけの資源を使うからにはそれなりの目的があった。それは当時リリース されたばかりのFreeBSD2.0R(98)を導入すること。X環境でそれなりに動作させ ようと考えたらこういうスペックが必要だと感じた。ただそれだけ。

当時のFreeBSDは、今ほどインストーラも親切でなくて、ある程度考えながら でないと導入ができないというものだった。しかも、FreeBSD(98)を収録した CD-ROMなんてものを売っているところなんかなかったから、ftpサイトから全 部FDに落としてインストールしたんだっけ。Xも含めるとFDが150枚くらい。し かも、1トラックが15セクタになるようにフォーマットして使う必要があった から、1枚1枚自分でフォーマットしなければいけなかった。

インストール時にDES互換ライブラリの導入の手順を間違って、login(1)がパ スワードを正しく認識できないというおおまぬけにはまった覚えが。このとき はシングルユーザモードで再立ち上げして、/etc/passwdを書き直したりライ ブラリを入れ直したりして事なきを得たんだっけ。

自分でXのコンパイルもやった。コンパイルには3時間か4時間かかる。Xはサー バーの設定がきちんとできていないと、グラフィックボードやディスプレイが 火を吹いたり煙をはいたりすることもあるという性格のものなので、結構どき どきものだったのだけど、なんとか動作した。このPC9821Xaという機械はグラ フィックボードが当時としては最新鋭のMatrox MGA IIというチップを使った ボードで、これに対応できるXサーバーが存在しなかった。

MGA IIは、Matroxが制御のための情報を開示してくれなかったため、現在でも 利用可能なXサーバーは存在しない。

しかも、当時はPC9821で拡張されたグラフィックモード(PEGC, 640x480, 256 色)をサポートするXサーバーも存在しなかったから、98汎用のEGC(640x400, 16色)で使うしかなかった。この環境がどのくらい悲しいかというと、一番小 さい14ptのフォントで表示したktermがほとんど画面いっぱいに広がる。2枚目 のktermを立ち上げても9割以上が1枚目のktermに重なってしまうという状況。 しかも、よせばいいのにディスプレイは17"だったりする。なかなか涙を誘う 光景だ。

5年近く経った今でも、FreeBSDの載ったサーバー用途であれば十分現役で頑張 れるだけのCPUなので、がんばってMule2.2をコンパイルして使っていた。バイ ナリデータを扱って、世の中にはBig EndianなCPUとLittle EndianなCPUがあ るというのを実感したのもこのマシンのおかげ。

UN*Xマシンではホスト名なるものをマシンにつける必要がある。ところが、当 時は、PCにUN*Xをのせるというのがまだ一般的ではなかったので、自分の専用 のコンピュータに名前をつけて使ってる人というのが非常に少なかった。せっ かくだからかわいらしい名前ということで「ibuki」と名付けて使っていたの だけど、結構まわりからは白い目で見られていた覚えが。

なに?「ibuki」の名前の由来ですか?高橋留美子「めぞん一刻」(小学館)を 読んでください。かわいいAB型のお嬢さんが出てきます。

このマシンはさらに翌年1996年の夏増強される。すっかり安くなった1GBの SCSI HDDを買い足した。そして、そろそろ時代についていかねばということで、 半年遅れでWindows95を導入。ついでに、OS/2 Warp V3(for NEC)を導入した。 これで、都合4つのOSが同居したことになる。4つのOSともにMS-DOSパーティショ ンを読み書きできるのだけど、それぞれがそれぞれに好き勝手なシステム用の 情報を書き込むので、MS-DOS5.0A-H上で動かしたFDなんかでFATの情報を表示 させると結構すごいことになっていた。

1997年の初め、導入してあったFreeBSD2.0R(98)を2.1.5R(98)にバージョンアッ プ。このバージョンアップで、それまで使えなかったPCIバス接続のSCSIが利 用可能に。ようやくFreeBSDからCD-ROMを読むことができるようになった。そ れから、FreeBSD2.0R(98)では、フロッピードライブのデバイス名が実際のデ バイスと一致していないという不具合があった。バージョンアップでこの不具 合も解消された。mtoolsをコンパイルするときに、2.0R(98)では実態に合うよ うにソースを書き直していたが、バージョンアップ後はこの必要はなくなった。 さらに、Xもバージョンアップして、PEGCが使えるようになった。わずかでは あるけど、画面も広くなり(640×480)、色も256色出るようになった。

Windows95環境で使うと、予想されたとおり、ちょっと苦しい。ということで、 1997年の春、メモリを増強した。もともとささっていた8MB分を抜いて、32MB に差し換えた。マシンを買ってからの2年間で、メモリの値段は1/4以下に下がっ ていたので、実に、16MBを購入時に増設するのにかかった値段の半分で32MB増 やせてしまった。困ったものだ。

かくして、メモリも48MBに増えて、それなりに幸せな環境にはなったのだけど、 増設前に比べてOS/2の動作が若干不安定になった。このころはPPPを使うのに はOS/2、プログラムを書くのにはFreeBSDという感じで使っていたので、OS/2 が不安定になったのは結構影響が大きい。とはいえ、どうすることもできない ので、我慢して使った。

迫害されていたWindows95も、pLaTeX2e for Winを購入したことで日の目を見 ることに。文章を書くときの適当な道具がどのOSにもなかったので、文章を書 く仕事でWindows95が活躍することとなった。

その後、1998年秋に「愛機その2(yumemi)」を購入するまで、メインマシンと して大いに活躍した。

さらに、2000年初め、「愛機その3(maggie)」にプリンタまで取られて、さら にかわいそうな状況にされていたりなんかして。


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最終更新: Sat May 29 10:24:02 1999